白土三平の漫画に登場することで覚えておられる方もいるかもしれない。猿が山の木の実を集めて忘れてしまい、それが自然発酵して生まれる酒のことである。
この猿酒伝説、中国の南の島々と日本だけにあって、他の地域にはないらしい。中国大陸にも猿酒の話の類はないという。古くからワインがあった所なら似たような話がありそうだが、やっぱりないようだ。もっともヨーロッパには猿が生息していなかったらしいので当然かもしれない。
猿酒が登場する伝説を挙げてみよう。
明代の李日華の「紫桃軒又綴」では、『黄山には猿が多く、春夏にたくさんの果実を石の窪みに集め、それが酒になる。香りが数百歩離れた所まで届く。樵(きこり)がこれを見つけ飲んで楽しんだ。たくさん飲んでしまったので猿がこのことに気付き、この樵をなぶり殺しにしてしまった』
清代の李調元の「広東筆記」では、『海南島には猿が多く、かつては岩石の多い所で猿酒が得られる。味は辣(から)く、これを得ることはきわめて難しい』
「広西偶記」という本では、『平楽には山中に猿が多く、百花を集めて酒を造る。樵が山に入ってその巣穴で酒を見つけることがある。その量は数石にも達する。飲むと香りは美しく、常とは異なっている。これを猿酒という』
日本の「俚諺集覧」では、『猿酒。猿の甘酒とも奥州南部辺にありと云ふ。猿が木の控へ木の実を入おきて製して人見つけて是をとると云へり』
西沢文庫「皇都午睡」では、『木曽の猿酒、岐蘇の猿酒は以前信州の俳友より到来して呑たるがこは深山の木の股節穴などの中へ猿秋の木の実を拾ひ取運び置くたる雨露の雫に熟し腐るを山賎見出して持返り麻の袋へ入絞りし物にて黒く濃して味渋みに甘きを兼ていかさま仙薬ともいふべき物也』
「嬉遊笑覧」という本では、『秋坪新語。忠州山中黒猿酒善醸酒ことを載す。酒といへりみさごすしに対すべし』
現実的に考えれば、アルコール発酵するよりも腐敗するほうが多いだろうし、あらゆる偶然が重ならないと酒にはならないだろう。しかし、このような古い文献に猿酒が登場するのだから、もしかしたらその偶然があったのかもしれない。そう思うと愉快な気持ちになってくる。